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北原こうじ店の100年

 
▲創業者 北原正太郎

当店が立地する裏木曽地方は、味噌を製造する業者がなく、また隣接する信州・尾張・三河・北陸からの影響を受けた為、家庭ごとに多様な味噌文化があります。
人々は点在する麹屋から麹を購入し、自宅で独自の味噌や醤油を仕込んだり漬物などを製造しており、地域には農業との兼業を行う小規模の麹屋が点在しておりました。
そんな数多くある麹屋のひとつとして、農業や養蚕などで生計を立てていた初代 北原正太郎が、明治末期に「麹製造販売商 北原正太郎」を創業しました。

▲創業当時の自宅兼店舗
写真左奥の小屋に大竈と麹室があった

麹屋といっても他の麹屋と同様に農業や養蚕とも兼業し、あくまで冬の副業としての形態であり、小規模なものでした。
時代が大正・昭和になり、2代目 寛一に事業が受け継がれてもその形態は変わらず続きます。
冬から春にかけてそれぞれの家庭で味噌や醤油を作り、そのために地域の麹屋から麹を購入するという文化が地域に深く根付いていたのです。

 

    ▲3代目 北原寛(18歳当時)

変革が起きたのは太平洋戦争前後です。
戦争勃発時17歳だった3代目 寛は、岐阜県各務ヶ原市の軍需工場に徴用され、飛行機の製造に携わりました。
終戦後、無事に帰還した寛ですが、直後に2代目 寛一が病死してしまいます。
残されたのは弟妹たちと家、麹を製造するための道具だけでしたが、終戦直後の日本は砂糖の主要な産地である沖縄や台湾を失い、極度の砂糖不足となっており、砂糖の代用品として麹の需要が高まりました。戦前までは冬から春にかけてのみ求められていた麹は、年間を通して製造を求められるようになったのです。
そこで寛は、農業を妻や弟妹に任せ、昼間は製材所で働きながら夜に麹造りを再開します。しかし子どもの頃の手伝いで作り方は知っていても本格的な修行は行っていなかった為、なかなか上質な麹を作ることができませんでした。

▲昭和50年代の自宅兼店舗

やがてそれを見かねた競合の麹屋店主が、「そんな麹を作っていてはだめだ。自分の技術を教えてやるから修行に来なさい」と寛に促しました。
しかし寛はそれを拒否しました。自分の力だけで誰にも負けない麹を作ってやろうと考えたのです。
寛は新しい手法を模索します。今までの一般的な製法に囚われないあらゆる方法を数十年にわたって試し、ついに高品質な麹を作る製法を確立しました。
昭和後期になると、砂糖の代用品としての需要ばかりか、自宅で味噌や醤油を作る伝統も廃れていき、また職人の高齢化も伴い、かつてたくさん存在した麹屋はどんどん数を減らしていきました。
当然当店も存続の危機を迎えますが、独自製法で品質を高めた麹と、それを使用して醸造した味噌を販売することによりその危機を乗り越えます。


 

▲当店独自製法で製造した米こうじ。
甘味が強く、米内部まで菌糸が行き届いている。
 

平成となると、味噌や米こうじなど自然食品が見直され、塩麴や甘酒がブームになりました。時代がそれに衰退の一途を辿っていた麹・味噌業界はかつてのにぎわいを取り戻しつつあり、新規参入する競合店も増え、だんだんと市場の争いが激しさを増してきております。
現在では麹造りも機械化が進み、安価な麹がスーパーなどでも多くみられるようになりましたが、当店の製法は機械化が難しくすべてを手作業で行います。
熟成にも時間がかかる為、価格で対抗することはできません。
しかし品質においては負けないという3代目の意思を受け継ぎ、現在でも品質にこだわった独自製法の麹を提供できるよう当店は努力を続けております。